母 ―『デミアン』に拠って― | 五月に或る人は言った。(仮) 

母 ―『デミアン』に拠って―

私には母がいる。
私は生まれてから今まで、一度も母と離れたことがない。比喩的な意味で。
母は、優しくて怖くて率直で、
私を抱きしめてくれる。
母は私に必要な存在。
たとえ反抗していても、母に褒められれば、励まされれば、やはり嬉しい。
それが、`母親の力´なのだろう。
人は成長すると母親の背後に、全てを司り、飲み込み、護ってくれるような、
`大いなる母´を見出して、それを拠り所に安定してゆくのではないか。
私には、母の中からそれを見出す力がない。
ヘッセの『デミアン』で、主人公ジンクレエルが
最後に見つけるのが、`大いなる母´。
長いあいだ、悩み苦しみもがき、自分自身の内部を見つめ足掻いた彼の、
恋人であり、兄弟であり、母であった、「エヴァ夫人」。
そして、ジンクレエルと、ジンクレエルの内なる眼というのか、
そういうものを開かせてくれた友達、デミアンと、
エヴァ夫人は、しばらく平和に暮らす。
でも、`戦争´という不幸が、三人をバラバラにしてしまう。
ジンクレエルとデミアンが別れる時のデミアンの台詞。
「 (略) きみはたぶん、いつかまた、
ぼくを必要とすることがあるだろうね――クロオマアやなんかに対してさ。
そうなってぼくを呼んでも、ぼくはもうそんなとき、そう手がるに、
馬にのったり、または汽車にのったりして、きはしないよ。
そんなときはね、きみ自身のこころに耳をかたむけなければいけない。
そうすればぼくがきみのこころのなかにいるのに、
気がつくよ。――わかるかい。
それから、まだ言うことがある。エヴァ夫人が言ったんだが、
きみがいつかこまるようなことがあったら、そのときは、夫人からのキスを、
ぼくがきみにしてあげるようにってさ。
そのキスをぼくは夫人から渡されてきたんだよ。・・・・・・目をつぶりたまえ。ジンクレエル。」
このように、言ってくれ、してくれる人を、
心の中に持つだけの度量が私に備わったら、
私は、その人を通して、私は私の本当の母の中に、
`大いなる母´を見出すことができるのだろうか。
ぼくが、ときおりかぎを見つけて完全に自分自身のなかへ――暗いかがみのなかで、
運命的な映像のまどろんでいるところへ、おりてゆけば、そうすればぼくは、
その黒いかがみのうえに身をかがめるだけで、
ぼく自身の映像が見られるのである。――もうまったくかれに、
ぼくの友だち兼みちびき手であるかれに、そっくりそのままの映像が。
そしてまた、`大いなる母´を自分の中に住まわして、
このように自分で自分を支えることが出来るように、なるのだろうか。
わからない。
参考------------------------
『デミアン』
ヘルマン・ヘッセ 
岩波文庫
ほかにも、得たことはたくさんあった。