連鎖  まとまらないなにか | 五月に或る人は言った。(仮) 

連鎖  まとまらないなにか

虐待の連鎖は止められると言って、支援の活動をしている人が、虐待された経験を持つ場合がある。それは、その活動をしている人の虐待の傷を癒すか?そこで行われていることは、おそらく「自分が生きられなかった(選択の余地がなかった)生を、他人を助ける事で疑似体験し、人の役にたつという大義名分のもと、幼い頃の自分を救済する」ということではないのか?








うまく気持ちを表現できない。私は上記のような体験はなく、また、上記のようなことを責める気には全くなれない。 …これは喩え、拙い比喩なのだ。つまり、なんというのだろうか、自分が受けた傷はどこかでなにかしらに昇華させなければ、自らを蝕み縛り追い込むということがいいたいのだ、たぶん。自分を縛る人は真面目な人で、自らを表現し開放する術をしらない。その事はやがて周りも巻き込み縛ることになるだろう。私はそうなりたくなくて、自分を表現することに過剰に固執してきた。  




                     
でも足りない。何がいけないんだ?何が足りないんだ?自分を表現するにはまず、相手が何を求めているか知ることだ。相手が欲しいものをあげて初めて、「私の声を聴いて」は始まる。そうだろ?そうなんだろ?なんだってあげるよ。だから、ほら、あなたはそこで立ち止まらないで。こどもにもどらないで。なんだってあげるよ。昇華させなければいけないから。なんだってあげるよ。     



私はひとつも変わっちゃあいない、ひとつも。