五月に或る人は言った。(仮)  -135ページ目

太宰治『晩年』(新潮文庫)より

「道化の華」より------------------

書いているうちに、その、雰囲気のロマンスなぞということが気はずかしくなって来て、僕がわざとぶちこわしたまでのことなのである。もしほんとうに土崩瓦解に成功しているのなら、それはかえって僕の思う壺だ。

 (略) 僕は負けたくないのだ。腹のなかを見すかされたくなかったのだ。しかし、それは、はかない努力であろう。 あ! 作家はみんなこういうものであろうか。告白するのにも言葉を飾る。僕はひとでなしでなかろうか。ほんとうの人間らしい生活が、僕にできるかしら。 こう書きつつも僕は僕の文章を気にしている。

 

僕はもう何も言うまい。言えば言うほど、僕はなんにも言っていない。ほんとうに大切なことがらには、僕はまだちっとも触れていないような気がする。それは当たり前であろう。 たくさんのことを言い落としている。それも当たり前であろう。 作家にはその作品の価値がわからぬというのが小説道の常識である。僕は、くやしいがそれを認めなければいけない。自分で自分の作品の効果を期待した僕は馬鹿であった。ことにその効果を口に出してなど言うべきでなかった。口に出して言ったとたんに、また別のまるっきり違った効果が生まれる。 (略) 僕は永遠にそれを追及してばかりいなければならぬ愚を演ずる。駄作かそれともまんざらでもない出来栄えか、僕はそれさえ知ろうと思うまい。 (略) これらの言葉は、僕は人から聞いて得たものである。僕の肉体からにじみ出た言葉でない。それだからまた、たよりたい気にもなるのであろう。 はっきり言えば、僕は自信をうしなっている。


僕こそ、混沌と自尊心のかたまりでなかったろうか。この小説も、ただそれだけのものでなかったろうか。ああ、なぜ僕はすべてに断定を急ぐのだ。すべての思念にまとまりをつけなければ生きていけない、そんなけちな根性をいったい誰から教わった?

過ち 誤る また謝る

不安です

だから馬鹿にされても笑っているのです

冗談だって思っているからでなくて

笑っていないと

ねぇ 今のは

ねぇ 本気なの 冗談?

ねぇ どうしたらいい 

あぁ そうだよ とりあえずごめんなさいだね

そう ごめん 大切な言葉

噴出する思いに耐えられないから


馬鹿だから

人の言動を区別できない

冗談 本気 遊び 仕事 義務 

・・・あぁ もしかして褒めてくれてる?・・・・・・


話して話して話して話して

それでも尚 受け止めてくれる人でなくては不安です

誰もそこまで暇でないから

僕は一人で話をしています

僕は優しく、厳しくされると贅沢になるから

初めから話さないようにしないといけない

みんな 疲れてしまうから


淋しい


整骨医院に行ってきました。

昨日、整骨医院に行って来ました。

腰に違和感があって寝るときに気持ちが悪かったので。

そこの先生は、なぜそうなっているのか、

どうして今こんなマッサージをするのかなど、

いちいちきちんと説明してくださるので嬉しいです。


今、定期的に通っている、手術もしてもらった病院では、

私の障害は比較的軽いほうな為か、

あまり説明をしてくださらない。


私の障害は、日常の生活の中で気をつけていくことによって、

かなり楽になれるものなので、

家や学校でどういうことに気をつけて、

どういうことを続けなくちゃいけないのか、

ちゃんと教えていただける、その整骨医院には

とてもお世話になっている。



聴いてくるだけでなくて、

ちゃんとリハビリを実行するように頑張ります。

片山恭一『最後に咲く花』(小学館) より

「ひどい世界じゃないか。他人の生活を踏みにじることなしには、生きていくことさえできないような仕組みが、世界の隅々にまで浸透している。 (略) 人間はお互いがお互いを喰い合う生き物に成り下がってしまった。 (略) たしかにそうなのだが、しかし自分の中の一部分は、まだ大丈夫だと感じている。おれのなかには損なわれていない部分があって、それはいつでも救い出すことができる。臓器移植を必要とする、一人の女性のおかげで・・・・・・

言葉に詰まった。笑いに紛らわそうとすると、声が震えた。深く息を吸ってつづけた。

「いったい何者なんだ。由緒ただしいの由に、希望の希・・・・・どこにでもありそうな平凡な名前なのに。壊れた肺と心臓でかろうじて生きている彼女は。ほとんど寝たきりで、身のまわりのことさえ満足にできない。 (略) だが根本的な部分で、本当に救われていたのはおれの方だったんだ。彼女がおれを救ってくれていた。そのことにようやく気がついた

もう一度、深く息を吸って吐いた。

「すべてから立ち去ろうとするとき、頭に浮かぶのは彼女のことだ。どうしてだかわからない。いや、おれにはわかっている。少しずつだが、分かりかけている。治る見込みのない病気にかかったとき、耐えがたい痛みや苦しみに襲われたとき、人生半ばにして、自分は死ななければならないとわかったとき。折節に、彼女はいろんなものを捨ててきたのだと思う。多くのものを捨ててこなければならなかった。大切なものも、そうでないものも。燃料の切れかけた飛行機が、重量を軽くして飛び続けるように。するとどうなるか。何もなくなるのだろうか。そうじゃない。捨て去ることによって、彼女は少しずつ無垢なもの、純粋なものになっていったんだ。そういうものとして、彼女は立っている。深い雪に覆われた丘の上に、すっくと立つ一本の木のように。彼女は何も言わずに待っている。わずかなりとも力を行使することはない。同じ場所にいて、黙って待っている。それだけだ。ただ在り続ける。だからおれは、彼女に向かって歩いていくことができる。真っすぐに、歩いていけばいいんだ。 (略) 強いと思っている人間は、本当は弱いんじゃないだろうか。自分は強い人間だから、最後は自分の意志で死ぬことができると考える。そのことが結局は、当の人間を弱くしている。」





今考えてることに、根本的なところで、たぶん、ちかい。

片山恭一『最後に咲く花』

自殺幇助というテーマにむしろ

共感さえ感じて

手にとったのは

治らない病の彼女と

その彼氏が

どう再生していくのかということを

御伽噺の中だけれど

完結させているところを

見たかったから


幇助されるほうでなく

するほうの視点が

私には必要だった

あの人に

何をしてあげられるか

もうわからなくなっていたから



この人の文体はあまり好きじゃないけれど

この人の中でずっと

伝えたいこととしてあるもの が

とても好きだ




かける言葉は見つかった

一冊の本だ

たった一冊の中から

見つけた

私自身の切実さが

無理にこの言葉を選び出したのかもしれないけれど

それでもいい

もう

私自身の力では到底

救いなど見出せなかったのだから


所詮は虚構だけれど

虚構は時に真実を形作る


また苦しめるかもしれないけれど

俺はそんなに綺麗じゃないんだ

どうしてそんなに優しいんだよ

見放すつもりだ そうだ

いつだってそうだったからな 嗚呼

そういわれるかもしれないけれど


それでも伝え続けます


この本からの引用


☆その他メモ書き-----------------

・胚を選択されて

 生まれる前から、

 選ばれること無しには祝福されなかった命は

 笑わない

 泣かない


・人間はけしてそんなことしないのに

 牛は仲間を食べさせられた

 考え始めれば世にも怖ろしい

 狂気は人間への警告



↓おそらく買います。

著者: 片山 恭一
タイトル: 最後に咲く花